ふるさとの萬葉
住吉の埴生(すみのえのはにふ) |
草枕 旅行く君と 知らませば 岸の埴生(はにふ)に にほはさましを 清江娘女(すみえのおとめ)(巻1−69) |
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「旅のお方と知っておりましたら 記念に岸の埴生で衣を黄色くお染めしましたものを」 |
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白波の 千重に打ち寄する 住吉の 岸の黄生(はにふ)に にほひて行かな 車持千年(くるまもちのちとせ)(巻6−932) |
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「白波が千重に打ち寄せてくる住吉の岸の黄生で美しい色に染まって行こう」 |
万葉時代上町台地の住吉の西側はすぐ崖になって 粘土層の黄生(はにゅう)が露出している所がありました 黄生は摺り染の材料として衣に摺り付け使用していました 住吉の御津(みつ)は内海で風光明媚な所で 大和から来た万葉人にとって 見飽きる事のない 心安まる穏やかな海でありました |
![]() 坂になってます 万葉時代は黄生の粘土層が 露出していた所です 現在の南港通り辺りはこの黄生の上を走っています 現在住吉の美しい海は遠く押しやられ黄生は舗装化され 万葉時代を望むのは難しいようです |
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住吉の大御神(すみのえのおおみかみ) | |
住吉に斎(いつ)く祝(はふり)が神言(かんごと)と 行くとも来(く)とも船は早けむ 多治真人土作(たじひのまひとはにし)(巻19−4243) |
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住吉神社にお仕えする神職のお告げでは 行きも帰りも船は安全で早いことでしょう |
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「住吉」は萬葉時代全て「すみのえ」と呼ばれていました 現在の大阪市南部住吉区と住之江区の接した一帯のことです 今では地形はすっかり変わってしまいましたが当時は住吉神社 東南方向から堺市の浅香丘陵にかけて海が湾入しており 広く住吉の御津(すみのえのみつ)と呼ばれそこから神社にまで 船が入ってきました 一首はおそらく天平勝宝四年(752年)遣唐使一行の為に 命懸けの航海の安全を祈願した歌です |
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